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当時3年生でしたが4年生の大会に出させていただいていて迎えたU10市大会決勝戦。

カッコいいユニホームのO庭さんは、一人とっても上手な子Yくんがいるので有名でした。

一年前の草むらの中でのリーグ戦の時も、

Yくんは一人で何人もドリブルで抜き去り、大活躍。

今でもビデオを見返すことがあります。

上手だったなあ。


聞くところによるとYくんは、川崎フロンターレジュニアのセレクションでも

ずいぶん後半まで生き残るほどの腕前だったとか。

この市大会決勝戦でも、かなり距離のあるハーフェイラインくらいの位置から

ものすごいミドルシュートを叩き込まれたのが印象的でした。


M岡も負けじと頑張りましたがO庭さんの強さには全くかなわず(汗)。

惜しくも準優勝となりましたが、神奈川県大会チャンピオンシップへの出場権を獲得しました。


M岡では夏のチャンピオンシップ出場は、

創部以来初とか50年ぶりとか?

とにかくチームM岡は大騒ぎ!父兄も大喜び!

子どもも監督も父兄もみんなで集まり

藤沢駅の居酒屋を貸し切るほどの大規模な飲み会までしてましたね。

コロナ禍の今となっては夢のような時間でした…


ただこの時

試合には負けてしまいましたが連戦の爆走を、

Jのスカウトさんが見てくれていたとのこと。


当時はJリーグのことなんて何も知りませんでしたし

セレクション?

スカウト?

何だそりゃ食べれるの?

くらいのイメージ。


この小学校グラウンドでの市大会決勝戦が、

夢への大冒険のスタート地点だったと気づくのは

しばらくたってからのことでした。

しかし、こんな片田舎の砂のグラウンドの小学校までスカウトさんが来るなんてびっくりですよね。

横浜や川崎と比べて小さな市でしたので

市大会で4回も勝てば県大会に出場できます(確か)。

市内の小学校で行われる公式戦は、もちろん砂のグラウンド。

チームごとに荷物車があり、あとは車出しの車に乗せてもらえればそれで、それ以外は電車バスで移動していました。

当時我が家には車がなかったので、団の皆さんには本当にお世話になりました。

子供たち自身も荷物とかも砂だらけなのに…本当に感謝しております。


我がM岡は地域でも弱い部類でしたが

息子は足が結構速かったので、頑張っていました。

とにかく爆走しまくってゴールを量産!

しかし成長期のせいか(※)膝が痛くて、時には引きずって走れなくなるほど。


準決勝の相手は古豪M会S台さん。前半で2点くらいリードしていたので

息子はベンチに下がりました。

すると古豪M会さん、終了間際で同点に!

なんとPK戦にもつれ込みました。

ぐるりと一周するんじゃないかと思うくらい何人かPKが続き

それを見ていたお友達ママさんは「私が吐きそう…」と。

少年団のみんなドキドキしながら大声出して応援するのが大好きでした。

ハラハラドキドキのPK戦を勝ち抜き
何と決勝へ!M岡的には近年めずらしい嬉しい勝ち残りとなりました。


※大会後、整骨院や整形外科、市民病院でのMRIなどさまざまな病院で検査してもらったところ、分裂膝蓋骨という膝の皿が生まれつきひびが入っているという診断でした。

成長に従い自然にひびが埋まることもあるとのこと。痛みが出たら休むように、という経過観察となりました。成長痛ではなかったのですね。子どもの怪我の判断は、難しいものです。しかしこの時の痛みがあったせいで、ストレッチやマッサージを熱心にするようになったのは収穫でした。

少年団の試合会場は、大抵は小学校の校庭です。

でもたまに市の保有するグラウンドだったりするんですが

夏場はかなりすごいことになっています!


それは、天然芝という名のただの草むら。


ゴルフでいうところの「深いラフ」

ぱっと見「ヤブ」でしかありません。


イレギュラーしようがサイドラインが見えなかろうが

そんなこと文句を言っていても始まりません。


どんな状況でも

相手より1つ多くゴールネットを揺らせば勝ちです。


たくましくなります。

雑草育ちww



↑この写真は市のホームページからお借りしました。たぶん、冬。夏はもっと草深いです!!

ご近所のK瀬小学校で試合をしたときのこと。

何かの大会だったと思います。


うちのチームは当時弱いので有名だったので(失礼)

会場校であるK瀬小学校の父兄の方々は

うちのチーム(M岡)は、負けてすぐ帰ると思われていたんです。


だから荷物を運ぶ車の駐車場も

一番出口に近いところだった様子。


でも普段ちょっとおとなしめの女の子が

開始早々「初ゴール」を決めたりして

チームは大盛り上がり!


初戦勝利を収めました。


そのとき、背後でこんな声が。


「わ、M岡勝っちゃった、大番狂わせ!車移動して!」


当然負けると思われていた我がチーム。

負けてすぐ帰ると思われていた我がチーム。

そういう扱いなんだなと、とても悔しく思いました。



もっともっと強くなろうね、と

みんなで心に決めたワンシーンでした。


1つ上の4年チームに混ざって参加した3年生の頃。

ふだんご近所の少年団と練習試合はあるものの

ちゃんとした公式戦は初めてでした。

もちろんめっちゃ意気込んで

走り回っていましたが、

ものすごい勢いで相手と衝突。


フィジカル差で吹っ飛ばされ

空中で一回転。


交通事故みたいなもんです。


で、背中から落ちてギャん泣き!


S監督がお姫様抱っこでベンチに連れ帰ってくれて

そのまま交代。


さいわい怪我はありませんでしたが

もうびっくりしちゃって泣いて泣いて大変…

低学年でのフィジカル差を身をもって体験。

痛いデビュー戦となりました笑


ジュニアサッカーでの「飛び級」とは、自分の歳の学年ではなく、より年長の学年の子どもたちと一緒に練習したり試合に出たりすること。ジュニアサッカーだけでなく、ジュニアユース、ユースと常につきまとう用語です。


プロになったら同じ学年の人なんかいないんだし、成長するにつれ「飛び級」という感覚は薄まると思いますが、身体が小さい小学生年代の1学年には、大きな差があります。


息子の場合1年生が1人しかいなかったこともあり、常に上の学年に飛び級(だって一人じゃチームできないもんね)。まあ規模の大きくない少年団でしたから、1〜6年生まで一緒にゲームすることも多かったですね。


でもそのおかげで、常に自分より大きな子と対峙する環境は確保。吹き飛ばされてもめげないタフな気持ちと、体格差のある相手への工夫などが鍛えられました!3年生時には、小学生年代の2大県大会がある「U10(アンダー10)」の試合に帯同するように。小学生年代は4年生のU10と6年生のU12の夏と冬に県大会があり、各市の代表権を取り県大会に出場することは、サッカーキッズみんなの憧れです。ドキドキ&ワクワクの真剣勝負の始まり!


昭和から続く団のユニフォームを無償貸与。学年ごとに背番号が軽くなっていきます。

私自身サッカー経験者でもなんでもないので、何が正解かはわかりません。ただ、6つ上の長男がクラブチームでサッカーを習っていたことがあるので、リフティングとかトラップとかパス練習など、初心者がやる練習メニューくらいは知っていました。


その頃ふと思い出したのが、会社員時代の同僚の言葉。彼は野球選手だったのですが、息子さんを指導する際に「最初から左利きのピッチャーとして育てた」とのこと。


「え、チチローは利き手を矯正するんかい⁈」と思いましたが、でも待てよ、これってサッカーでも同じではと思ったわけです。左利きのサイドバックとか、とても重宝されますもんね。


そこでサカママプロデュース(私ね)の自主練は、リフティングの回数を一緒に数えてあげて、応援すること(私はできないのですごいねー、回数増えたねーと応援のみ)。


飽きたらひたすらトラップの練習です。


私が手でボールを投げて、右脚、左脚に交互に出す。右利きなので最初は左が圧倒的にできませんでしたが、上記チチローの話を共有した上で「どっちも同じぐらいできるようになればいいじゃん」とひたすら鼓舞。最初は交互にボール出していましたが、左があまりにも下手なので、左多めで出すように。15分だけですけど、かなり毎日付き合いました。


その甲斐あってか、6年生の全国大会後に出た地元の草大会ではテレビを見て息子を知っていた見知らぬサッカー小僧たちに「あいつ左利きだろ?」と囁かれていました。ニヤリ。

どこへ行くにもサッカーの格好をしていた…こちらは低学年時の家族旅行です。伊豆。

楽しく練習参加していた少年団時代。1年生は1人しかいなくて、代表をはじめ先輩やパパコーチ、多くの人に可愛がってもらいました。ただ、サッカーは未経験でしたので楽しいけど「ド下手」。最初からよく走ってはいたけど、なぜかボールと平行に走るから全然ボールに絡めないww


そこで少年団OBでもある若いK監督に「どうやって練習したらいいですかね?」と聞きました。そうしたら「まずボールに慣れることが大事なので、1日15分ボールに触ってください」と。至極真っ当なご意見です。


私は10年以上前から在宅勤務のフリーランスなので、家にいるけど朝から晩までずっと仕事です。加えて上の子の習い事も忙しく、次男にはほとんど関わってきませんでした。そういえば、一緒に公園に行って遊んであげたこともなかったなあ私、反省。ということで「じゃあ今日からママと1日15分だけ一緒に練習しよう!」と決めて実行しました。

下手だから木の上にボールが引っかかっちゃって、物干し竿で取りに行くことも多数

少年団のマイルールは、結構たくさんありました。挨拶は大きな声でしっかり、とかはすごく厳しくて、今でもその名残は根付いている気がします。良いことです!でも何か規律に反すること(忘れ物、遅刻、名前のない持ち物、ケンカしたなど)があれば、グラウンド罰走というのは昭和的でした。罰走は累積系で「オレ今20周も溜まってるから、今日5周走っとこうかな」というように、自主的に消化していくのです。いくらでもごまかせそうな感じがしますが、子どもどうしはなぜか互いの罰走の残周数を把握しているようでした。今思い返すと、面白い制度です。


あともう一つ面白かった少年団のマイルールが「たとえ雨が降っていても、メンバーが11人揃えば練習をやる」というもの。歴史ある小学校のグラウンドは街の一頭地だったのか、土ですが水はけが素晴らしくよく、ちょっとの雨ではなんともありません。そのため、サッカーがやりたくて仕方ないうちの息子は、大雨でもいつも傘を挿してグラウンドに行き「絶対みんな来る。練習やる!」と息巻いていました。代表は一応来てくれるのですが、雨がひどいと来ないんですけどね、11人も。でも息子はいつも信じて傘差してグラウンドに通っていました。なんだったんだろう、あの熱意。サッカーが本当に好き、ということなんですかね。

そういえば小学校の花の種を植える活動みたいなやつが、JOCのホームページに載っていたなあ。


6年前、長男がお世話になっていたこともあり、少年団の様子は知っていました。


代表もお変わりなく「お久しぶりでございます、兄は中学でサッカー部に入りました。元気です。これ、あの時赤ちゃんだった弟です。よろしくお願いします〜」と挨拶。指導者も知っている方がちらほら。もちろん知らない父兄も多かったですが、お当番が何をやるかとかは知っていたので、少年団の体制に対する抵抗は、全くありませんでした。


よく「サッカーをやりたいけど少年団はお当番があるから嫌」という人がいますよね。


でも少年団は基本ボランティア精神で運営されています。悪名高きPTAと同じ。


私は小学校のPTA本部役員を2年間もやらされたクチなので、そういう滅私奉公無賃労働への耐性は高めな方。でもそれを差し引いても、少年団には感謝しかありません。


だって体力有り余る小学生男子の面倒を週に4日も見てもらって、月謝が3000円にも満たないんですよ…神ですよね?


元旦にはみんなで暗いうちから集合して江ノ島まで走り初日出を見る「元旦マラソン」なども良い思い出です。

息子が通っていた小学校は、もうすぐ創立150年になろうかという、歴史ある小学校。

運動会ともなれば、おじいちゃんおばあちゃん、父母も卒業生で、子どもも合わせて3世代でお弁当をつつくような、地域に根ざした学校でした。

(うちは転勤族なので違いますが)


そしてお世話になっていた少年団も、創立50年という歴史あるチーム。

練習日が火曜、木曜、金曜、土曜と週に4日もあり広々とした小学校グラウンドは貸切利用OK!お隣の中学校より、よっぽど恵まれた環境です。駐在の頃は安全性の問題から、一人で公園すら行ったことがなかった息子。小学校は日本だし(安全だし)、家から3分とめちゃ近いし。ゴールを使うのも早いモノ勝ち。


誰よりも早く学校から帰ってきて、ランドセルを放り投げて、すぐに学校に戻る。(カツオですか?)なぜってゴールをいちばんに使いたいから。


そんな毎日が楽しくて仕方なかったようです。

写真はイメージです。でもボロさが、よく似てる。

2年の海外赴任を経て、息子の小学校入学に合わせて地元に戻ってきました。

もともと住んでいた地域に戻ったのですが幼稚園時代のお友達はゼロ。

なんとか小学校生活に慣れたGW明けに小学校のサッカー少年団の体験練習に行きました。

最初は「やっぱり今日はやめとこっかな…」などビクビクしていた息子。

しかし練習が終わる頃には「オレもう入る!」と即決。

大好きなサッカーとの出会いの瞬間でした。

初めてのトレシュー。ちょうちょむすびができないので、マジックテープ(笑)